我が故郷

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 まえがき(回想録に至る経緯)

  「自転車で日本一周の旅」のホームページ作成当初、使用容量が1GBだった。従って、この範囲に収めるため貼り付ける写真サイズを数回縮小修正を繰り返しながら、やっと公開することができた。つまり、多くの写真のサイズが横4.5a×縦6aのサイズで貼り付けていた。

  ということで、1GBという許容量は私にとって、かなり物足りない数値だった。10GBでありながら1カ月の使用料金が私の商品よりも安いプロバイダーがあったからだ。

  以上のことも含めて、他のプロバイダーに乗り換えようと心の準備をしていた平成24年の暮れ、突然、使用中のプロバイダーが、使用容量1GBから10GBに増量された。極端すぎる対応に、さすがに驚いた。そのため、引き続き利用することにした。

  許容量が増加されたので、早速、自転車で日本一周の旅の画像を拡大。同時に「我が故郷」の写真と回想録を追加することにした。



東京一極集中に危機感

  自転車で日本一周の過程で、沿岸部に点在する田舎の集落を沢山見詰めながら走った。そこで気付いたのは、廃校や若者さえも見かけないさびれた商店街だった。地方都市でも県庁所在はさすがに賑わいがあるが、場所を一歩離れると、若者の姿を見ることが出来なかった。だから、町に活気がない。考えられる原因の一つが、少子高齢化に加え、地方都市では若者が職を求めて居住を首都圏に移しているからだろう。

 それを裏付けるかのように、首都圏周辺の人口は増加傾向にある。それは、メディアを通して日常目にする首都圏に溢(あふ)れるばかりの、人、人、人・・・からも分かる。どのようにとらえても東京は、人間がストレスを感じないで暮らせるための居住空間をはるかに超えている。その最たるできごとが東日本大震災だった。首都圏の電車が止まると、駅周辺には通勤客が溢れていた。このとき、「帰宅難民者」ということばが使われるようになった。映像を通じてだが、冬の寒さのなかでじっと耐える多くの通勤客の姿を目にしたときの光景が今でも忘れることができない。首都圏直下型地震でも起きたなら、この国はどのようになるのだろうか。

 今、田舎の商店を支えているのは、私のような団塊世代といえる。つまり、この世代がこの世からいなくなると、購買力が一気に下がるので小さな地方都市では、大変なことになる。だからこそ、東京一極集中のあり方について本気になって取り組み、改善をしなければ日本国土のいたるところの市町村が廃墟と化した状況が起きることは間違いない。つまり、限界集落を飛び越えて地方存亡(地方自治体の存亡)の危機に立たされる。

 インターネットの普及した現代社会では、業種によっては必ずしも首都圏内でなければ業務が機能しない、ということでもない。たとえば徳島県神山町という田舎の古民家を使ってITベンチャー関連企業が急速に根付いている。地域再生のヒントを与えてくれている。

  さて、高知県にある離島(無人島以外)は、私の住んでいた沖の島と、もう一回り小さい鵜来島の二島からなる(橋で繋がれている島もあるが)。昭和50年前半までは、何とか人口維持が出来ていたようだが、その後、人口減少に歯止めがかからず、私の田舎でもそれまで賑わっていたはずの小中学校が廃校に追い込まれてしまった。都会に身を置く私がこのようなことを記するのは、つじつまが合わないが、本当に寂しい限りだ。

  私も今は退職をし、日々何かと考える余裕ができた。そこで思ったのが在りし日の田舎暮らしのことをホームページで書き込むこと。完成には程遠いわけだが、修正と追加を繰り返しながら生を受け15歳まで育った田舎の記録を綴り残してみることにした。

  2013年(平成25年)8月



故郷の地図(位置)      

故郷:高知県宿毛市沖の島

位置:四国の最南端に位置し周囲20Kmの小島。平坦地が殆どない。片島港(宿毛市)から連絡船で約1時 間30分要する。それでも、私の若いころの木造船時代は、時間がもっとかかってい た。


    島の位置は地図表示のとおり。