故郷の回想録

ホームに戻る

故郷の位置  故郷の写真  故郷の写真


目 次   
故郷の回想録(前書き)  昭和30年代の島の交通事情  昭和30年代の暮らし
 さつま芋 麦の収穫 燃 料 
 暖 房 五右衛門風呂   水 源
電 気  電気製品  蚊の対策 
医 療  夏の行事  島のお店 
農繁期 手伝い  祭 事
唯一の娯楽(楽しみ)  台風の威力  今ある私の礎 


故郷の回想録(前書き)
 「回想録」と書くには、かなり恥ずかしいものがある。したがって、時間をかけながら、極力、名に恥じない方向へと修正を加えることになる。

 さて、親父が生前、セカンドライフの場を故郷に求めていた。でも、おふくろの同意が得られなかったので、親父の田舎暮らしを私が反対した。いまになって思うと親父の田舎暮らしを叶えさせてあげることができなかったことを、少々悔いている。それは、親父の年齢に私も近づくにつれ、故郷のことを思う親父の気持ちが少しずつ理解できるようになってきたためだ。

 ただ、私と親父の考えの異なるのは、田舎暮らしに憧れているものの故郷での暮らしは望んでいないことだ。 私の心はまるで空を流れゆく雲のようで心中に定まりがない。それは、「帰りたくない、それでも故郷のことが忘れられない」この心境なのだ。まるで、室生犀星(むろう さいせい)の「故郷は遠きにありて思ふもの」の詩そのものともいえる。

 西の海に没するダルマ夕日の美しさ、今でも私の瞼に強烈に焼け付いている。

 大阪で暮らした期間は約50年(平成25年現在)、一方、故郷で生まれ育ったのは15年。なのに、田舎で育った思いが強い。このようなことで、改めて田舎での生活を振り返り、わが思いをつづってみることにした。なお、現段階では箇条書きをしているにすぎないので、時間をかけながら大幅な修正をすることになる。


昭和30年代の交通事情
  私が故郷で暮らしたのは、島で生を受け中学卒業するまでの15年間。戦後生まれの時代なので、都会・田舎に関係なく、昭和30年前後の日本の暮らしは、恐らく貧しかったことが想像できる。表現は悪いかもしれないが、今、テレビで見る異国の田舎暮らしが、当時の日本の田舎の生活環境そのものだったように思う。

  私が上阪したのは昭和39年。高知県内の一部の国道でも未舗装道路が普通に見られた。いや、大阪府内でも郊外になると、まだ未舗装道路が存在していた。故郷を離れる当時、バスの後部座席に座っていると、タイヤが悪路をとらえるたびに反吐(へど)を吐く思いがする程、体が上下に揺すられたことを覚えている。そのような時代だから、高知県内を走る長距離列車もいわゆるSL列車が主役だった。
今、思えば、贅沢な列車であったことに、逆に感謝をしたい。


  今は宿毛市内まで電車が開通しているが、当時はバスで窪川駅(高知市と宿毛市の中間地点)まで行く必要があった。そこから高知駅を過ぎて更に高松駅まで行き着くと、次は瀬戸内海を渡るために宇高連絡船に乗り換え、宇野駅(岡山県)から更に山陽線に乗り換え、大阪へ向かっていた。島をたつのが朝で大阪に着くのは翌朝を迎えていた。宇高連絡船が宇野港に接岸すると、ここで列車に乗り継ぐ。ところがここからが大変。座席を確保するため、列車を目指して我先に一目散に走ったものだ。座席数よりも乗客人数が多かったわけだから。

 写真を見て頂いてもお分かりのように、故郷には、山頂以外、平地がないので当然、車も存在しなかった。そのような環境で育ったわけだから、車のない暮らしがごく自然であり、不便さなど考えたこともなかった。当時あるのは、せいぜいバイクだけだった。なので交通事故は無縁のもので、これが昭和30年代当時の島の交通事情だった。でも、時代は変わり今は車が走っているけれども。

<島内からのアスセス>
  故郷の島と四国・宿毛市(港)を結ぶ交通手段は定期船。今もそうだが、沖の島(故郷)〜宿毛市片島港を定期便が朝夕の二便通っていた。ただ、昭和30年代の何時ごろまでだっただろうか、今よりも3〜4か所も多い港に立ち寄っていた。だからずいぶん時間がかかった。また、当時の船は小さな小型木造船だった。これがまた冬場や台風到来前になると海上が荒れるので、定期船も随分揺れたものだ。高波で船体が揺れるたびに、客室で寝ていると体が転がったことを覚えている。

  問題はこれだけではない。台風シーズンや冬場を迎えると欠航することはごく自然なことで、定期船がせっかく島に着いても高波が埠頭に押し寄せると船が接岸できないこともあった。このようなときは、定期船は波止場の沖合で待機して、島の漁船が定期船から乗客と荷物を搬送していた。

  現在の定期船は船のラインも美しくて見てくれもいい。それに高速艇だから所要時間もかなり短縮されている。勿論、木造とは違う。今は、釣り人がよく利用されているという。


昭和30年代の暮らし 
 島は、最高峰が404bの妹背山(いもせやま)と他のいくつかの峰から成り立っている。頂きから海岸までは結構な傾斜で成り立ち(憶測だが、30度はあるように思うのだが)、山頂から海岸にたどり着くと、そこはすぐ波打ち際になる。つまり平坦地がない。埠頭に観られる僅かな平坦地は、埋め立てて出来たもの。

  集落は、母島、久保浦、古屋野、弘瀬、谷尻、玉柄、の6つから成り立っている。ただ、どこの田舎についても言えることだろうが、島では若者の働く所がない。だから学校を卒業すると都会にでて就職するか、漁船で生計を支えるのが一般的だった。

  一方、留守を預かる主婦は、島内で農作業をすることで、生活を支えていた。島には平地がないので、暮らしに必要な屋敷や耕地は石積みで造られている。先人の苦労に頭の下がる思いがする。昔の人は、本当にすごい。

  このような島内条件もあり、さすがに先人たちも、ため池を造ることはしなかったようだ。つまり、村全体が段々畑で成り立っているので、ため池を確保しても、そこからすべての耕作地に水路を設けることは、物理的に不可能なことが分かっていたわけだ。

 島でも頂きのごく限られたところに平坦地があったので、そこで暮らす村民は稲作を行っていたことを覚えている。

 以上のような土地柄から、作物の主流は、夏前に収穫する麦、秋に収穫する芋。あとは、様々な野菜やトウモロコシ、それと落花生などの耕作が行われていた。落花生だが、収穫にはものすごい手間がかかった。収穫は鍬(くわ)を使って掘り起すわけだが、耕したあと落花生が残るので、二回にわたって耕す必要があった。だから、落花生の収穫は、ほんとに嫌な作業だった。 


さつま芋
   芋の収穫時期になると、どこかの業者が船で芋を買い付けに来るから、主食となる芋と翌年の種イモ以外は業者に買い取ってもらっていた。農作業から得る唯一の現金収入になっていた。畑で収穫した芋を自宅に運び、売るときは更に埠頭まで運ぶ必要があった。

  主食のひとつである芋の保管だが、これには先人の偉大な知恵が生かされていた。それは、各家庭に設けられる「芋つぼ」と呼ばれるもの。要するに、一年を通じて一定の温度と湿度を保つことで、芋を腐らせることなく保存する手段(知恵)なのだ。秋に収穫した芋を冬の寒さから芋を守るための保存の知恵といえる。テレビを通じて見る外国でのワインの貯蔵と類似している。完成したワインは人工の地下貯蔵庫に保管されてある、あの原理なのだ。その原理を我が田舎の先人は取り入れていたことになる。

  どこの家庭も玄関を入ると広い土間が設けてある。そして、作業の効率上、土間にいちばん近い居間の下に広さ三畳程度、深さ1bあまりもある土がむき出しの
「いも壺」が掘られてある(床下収納)。土のむき出し構造が芋を保存するうえで大切になる。そこに芋を保存しておくわけだ。だから、「芋つぼ」を使うため出入りに必要な空間だけは床板の取り外しが可能な構造になっている。

  秋に収穫された芋は、種イモとして翌年の春に使うものと主食に使うものを、芋つぼに区別して保管する。他に、冒頭でも述べたように、現金収入として芋は売られていた。

  種イモは翌年の春になると家の近くにある畑に畝(うね)を造り、そこに埋める。畝のそばの低いところには下肥を施す。すると芋から新しい蔓(つる)がでてくるので、25a程度に摘み取った蔓を、6月の梅雨に合わせて別の耕作地に運び、事前に準備をしておいた耕作地の畝に蔓を一本ずつ土の中に差し込んで埋めることになる。すると、梅雨の恵みを受けた蔓は、すくすくと成長する。

  秋後半に入ると立派な芋が育つので、これを鍬(くわ)を使って芋に傷つけないようにしながら、ひと畝ずつ丁寧に掘るわけだ。

  収穫した芋を運ぶ手段として使われるのが、ワラを編んで作られた「ふご」という、直径30aあまり高さ50a程度の円柱形をした入れ物。これに収穫した芋や麦など様々なものを入れ、更に、この「ふご」は「背負子(しょいこ)」という先人の編み出した文明の力に載せ、それを背負って運んでいた。 


麦の収穫
 サツマイモの収穫が終わると、次は、翌年の春後半の収穫に備えての麦の種まきに入る。麦の芽が5a程度に成長すると麦踏を二回行う。やがて芋の作付けまえの春の収穫時期が訪れると、釜を使って麦を一束ずつ刈り取る作業に入る。方法は一昔前の稲刈りと全く同じ手法。

  刈り取った麦は数日間畑で乾燥させ、これが終わると、千歯扱(せんばこ)きにかけて稲穂だけを摘み取る。この時期になるとムカデが出るので嫌だった。

  残された幹の全ては、焼畑で処理していた。この時期になると、どこの畑を見ても焼畑から出る煙が立ち上っていた。

 収穫した稲穂は島内で一か所ある精米機を備えたお宅に運び、そこで脱穀機にかけてもらい籾(もみ)を取ってもらう。脱穀が終わると自宅に持ち帰り、故郷の写真でも紹介しているように「干棚(ひたな)=物干し場」に広げて自然乾燥させていた。自然乾燥した麦は、麦壺(倉にある大きな木の箱)に保管することになる。

 麦は当然主食の一つとなっていたわけだが触感として、米と違って美味しさに欠ける。だから食べるのが嫌だった。でも、冷静に振り返ってみると、麦は贅沢な食品であることに気付く。今が健康であるのは、島で育ったころ食べた麦が良かった、と思っている。

 さて、干棚であるが、竹を編んで出来ているので上下左右から自然の風が流れる。だから、夏はここで夕ご飯や夕涼みの場として、更には、作物の物干し場として重宝されていた。

 「干棚」の写真は、「故郷の写真」で見ることがでる。この「干棚」は、先人の編み出した素晴らしい知恵と言える。


燃料 
   燃料の主役は薪だった。薪を作るのは、男の仕事。鰹船が暇になる年末になると、各家庭が保有する山林の木を男の手で伐採。更に40aほどの長さに切りそろえる。これは、煮炊きや五右衛門風呂で使うために必要な「かまど」で使う長さにしていた。山で切った薪を自宅まで運ぶのに適した長さでもあった。伐採した薪を数日間寝かることで、少しでも水分を抜く。それでもまだ薪に水分が含まれていたので、とにかく重かった。

 運搬の方法は、「背負子(しょいこ)」と言う農具(ふごを載せる用具)だが、それに薪を積み重ねて背負って運ぶ。ほんとに重宝で、なにを運ぶにしてもこれを使っていた。

 一年分必要となる薪を山で作り、自宅に運んだものを屋敷の一角に積み重ねて保管する。

  薪は、釜でご飯を炊くときに使う。同時にお風呂を炊くとき等、多くのことで使われていた。どこの家庭でも炊事場があり、私の家では、そこの一角に倉が設けてあり、さらに4畳半ほどの板の間があった。そばには煉瓦(れんが)作りの「かまど」があり、そこに鍋を据えて下から薪で火をおこす。私はかまどによく芋を入れて焼き芋をしたものだ。このように、薪は煮炊きをするうえで必要なものだった。


暖房
  とにかく時代は昭和30年代のことだから、平成時代とは雲泥の差がある。とりわけ当時の暖房装置といえば、火鉢が一般的。木製で作られていた。木製の枠には湯飲みなどが置けるように、およそ15aほどの幅を設けてあった。

 火鉢なので暖を取れるのは手だけ。火鉢の中には灰が置かれてあり、その中央に木炭を置き暖をとっていた。勿論、燃料は木炭となる。

 他にデカイ陶器で出来た円形の火鉢もあった。炭は薪を燃やしてできたものを木炭として使っていた。このように考えてみると、木がいかに重宝であり、有効に使われていたのかが理解できる。暮らしは、ほとんど自給自足に近いといえる。

 当時は、真冬でもその程度の暖房器具で寒さをしのいだ。翻って今の時代の暖房装置はどうだろう。電気じゅうたん、あるいは電気炬燵(こたつ)、更に温風ヒーターまである。まさに至れり尽くせりの社会といえる。人間というものは、どのような環境であれ、一旦、至福の生活に浸るとそこから抜け出せなくなる。まさに私もその一人といえる。ほんとに贅沢になったと思う。だから、贅沢になったぶんだけ子供達も脆弱になっている。 


五右衛門風呂
 当時の島の風呂は、どこの家も五右衛門風呂だった。入浴するときは、やけどを防ぐため円形の板の底板が備えてあるので、それを足で沈め、体重をかけることで入っていた。風呂の燃料も薪(まき)だったので、お風呂を薪でたくとき、火口に芋を放り込んで、よく焼き芋をしたものだ。


 水源
 少々記憶も薄れたが、島に水瓶(みずがめ)・タンクができ、曲がりなりにも各家庭に水道が引かれるようになったのは、私が小学高学年前後になってからのことだったように思う? それまでは、村の中央に小さな渓流があるわけだが、そこからパイプ(竹筒)を引き、家庭にある水瓶となる小さなタンクへと水を導いていた。

  ところが、ものすごく恐怖なのが、谷川から直接水を引いているわけだから、筒を通して30a余りもある大きな“ミミズ”(よく、キンタロウと言っていた)が我が家の水がめである貯水槽に入り込んでいた。そいつは、全体がキラキラ輝いていた。とにかくでかくて、気持ちが悪かった。畑でよく見るミミズとは、けた外れに大きかった。30a余りもある巨大な“ミミズ”だ(=下記写真)

  最終的には衛生面を含めて、また各家庭に水を安定供給するうえからも、水源地となる妹背山(いもせやま)そばに水瓶となる貯水槽を設置。さらに、島内の主要箇所に大きなタンクを設けた。このようにして、水瓶から各家庭に衛生的で安全な水が安定的に各家庭に供給できるようになった。つまり、簡易水道の誕生となったわけだ。



 次の写真は、大台ケ原をハイキング中の山の斜面でたまたま見かけたもの。田舎で見た、そのものだ。本当に珍しいものを久しぶりに見た。さっそく、その写真を使うことにした。こいつが、谷川から自宅へと導くための樋(竹筒)に入り込んで、自宅に設置の水瓶(タンク)の中へと入り込むことがあった。我が家は谷川が近かったので、とくに台風後になると、その光景をよく目にした。今思うとまるでどこかの田舎の光景だ。
   
   こいつが我が家の竹筒の中を通り、家屋に設けてある水がめに
   入り組むことが度々あった。
   

 

TOPへ


電気
 小さな離島なので、私の子供のころはまだ、電気の使える状態でなかった。つまり、明かりはランプが使われていた。電気を灯すことのできたは小学校、低学年の頃だったように思うが、記憶も定かではない。ただ、これもいつのことか分からないが、そのうち離島にも電気を通すための海底ケーブルが敷設されたことだけは覚えている。このあと、我が家では、毎朝ラジオから様々なニュース等が聞こえてきたことが記憶に残っている。


電気製品
 コタツ、扇風機、冷蔵庫等、当時の島の生活では使われていなかった。昭和30年代のことだから、都会でもまだ多くの家庭で冷蔵庫が使われていなかったのではないだろうか。私が中学生になって以降、島内にもやっとテレビが普及しだした。


蚊の対策
 神社に比較的近い位置に我が家があったので、屋敷の一角のすぐそばは樹木に覆われていた。このこともあり、夏になると蛇やムカデは当たり前のこと。当然、寝るときは蚊対策が必要となった。そこで使われたのが蚊帳(かや)。当時は恐らくどこの家庭も蚊帳が使われていたはずだ。

 蚊帳の生地は、子どもがセミを取る時に使うネットの生地と類似していると思っていただければよい。部屋の四隅を利用して蚊帳を吊るようにしていた。その中で寝ることになる。ところが、おふくろは怖がりだったので、夏でも寝るときは雨戸を閉めるから、とにかく暑かったことを覚えている。


医療
 村には、一応、診療所があった。でも、当時の島民の多くの方が健康に関しては恵まれていたと思うので、今の都会のようにいつも患者で溢れているような状況ではなかった。当時の学生も風邪等、病気で学校を休むということは、ほとんどなかったのではないだろうか。

  個人的に診療所でお世話になったのは、膝をけがして三針縫ったこと。でも、そのときの痛さを忘れることができない。間違いなく、局所麻酔をせずに縫ったはずだ。あとひとつ、歯科医。当然、歯の治療は島内ではできなかった。私のいちどだけ虫歯に悩まされた。その時は、宿毛市内の歯科医にかかったことがある。


夏の行事
 夏に入ると、盆踊りもそうだが、笠鉾(かさほこ)という行事があった。子ども心の思い出だけの知識なので、笠鉾についての由来や詳細なことは不明であることを、お断りしておきたい。

  笠鉾とは、一年間のなかでお亡くなりになられた方をその家庭で弔うための、村で行われる大切な夏の行事だった。

  使われるのは、その名のとおり、大きな和傘。広げた和傘の外周を幅30aほどの布で、ぐるりと覆う。笠の中には様々な飾りつけをし、更に明かりを取り付ける。行事は夜間、島で一番広い場所を使い、飾り付けた和傘を男たちが持ち、広場を厳かに周回する。傘に取り付けた明かりは夜になると灯されるので、子供心にも、それは鮮やかだったことが蘇る。今は、二年に一度の行事になっているという。


島のお店
  当時、村にお店が4店あった。商品は日常必要とするもは、ほとんど揃っていた。だから、なにか不自由をすることもなかった。ただ、お店のほとんどが、港に近いところに位置していたので、我が家からは、すごく不便だった。我が家は、中腹にあったので、母に買い物を頼まれるのはいいのだが、たまに注文を忘れることがあった。すると、また買い物に行かされる。石段の道を往復するわけだから、それは大変だった。

  基本的には、自給自足に近い生活だから、お店をそれほど必要とするものでもなかった。

  当時、村で豚を飼育していたところがあった。たまにこの豚を屠殺(とさつ)し、肉を売っていた。残念ながら我が家で豚肉を食べることはなかった。子供心に「食べてみたい」と思ったものだ。

  それと、お店で見る「牛乳」。どのような味がするのだろうか? と、豚肉と同じく興味を持ったものだ。でも、これも見つめるだけで当然、飲むことはできなかった。もう一つ心の中に残っているのが「バナナ」。これもお店で見かけたわけだが、当時は高価な果物で、とてもではないが、食べることなどできなかった。



 農繁期
 「農繁期」とは、漢字の意味するそのももで、農作業が盛んに忙しい時期に学校を休校にして、子供たちが家の農作業を手伝う制度である。我が故郷独特の制度であったのかもしれない。

 故郷で暮らしを支えとなるのが、農業でもあった。そこで必要となるのが、農作業に必要な人手。我が家は当時、農作業をしたのは、実質的には、おふくろと二人でやっていた。

 道のすべてが石造りの階段で成り立っている。だから、なにを運ぶにしても、尽力に頼る。重いものはすべて、「背負子(しょいこ)」と言って、木造りでできた背負う器具に荷物を載せて運ぶわけだ。いわゆる、なにごとも人海戦術で作業で成り立っていた。

  収穫期に入ると家族総出になる。でも、親父は常に留守。だから、農作業の主役は、留守を預かる主婦と子供だけになる。芋や麦の収穫、あるいは、種まきや芋の苗を差す時期になると、学校は「農繁期」に入る。農作業を手伝うために休校になる。そうなると、島内はまさに戦闘体制となる。その様なときに遊ぶなどは、とんでもないことだった。

 上段、麦刈りのところで触れているが、麦を収穫した後、必要のなくなった麦の幹はすべて焼き畑をする。このときは、あちら、こちの畑から煙が天高く舞い上がる光景が当たり前のように見られた。つまり、農作業が繁忙期であることを象徴する光景ともいえた。


 手伝い
 農作業は、我が家だけでは終わらなかった。お袋の実家の農作業の手伝いもさせられた。他の親戚の手伝いも同様だった。だから、はっきり言って、農作業が嫌になっていた。

 更に、村の中で親戚が新築をすると、これまた材木を運ぶための手伝いをさせられたものだ。

  私が中学一年の時だったと思うのだが、島内でいちばん高い妹背山(404b)の頂きが開拓された。そのときの作業に使われたのが「ブルドーザー」というデカイ建設機械だった。トラクターの前面に可動式の排土板が装着してある。それで土をかき寄せながら整備するわけだ。今でも記憶に残っている。

 ところで、開墾された土地の一角を、なぜか親戚が購入した。問題はこの後だ。購入した土地に家を建てることになった。そのときも、人海戦術(家族・親戚)で海岸から頂きまで資材を運ばされた。とにかく石積みの山道を、肩に材木を担ぎ、また、瓦などは背負って運ばされた。でも、頂きまで資材を運ぶわけだから、一日に数回運ぶのが限度だった。更に、ここで収穫した農作物をまた住まいの村まで運ぶこともあった。すべてが無償の手伝いになる。収穫するときに畑で、よく野ネズミを目にした記憶がある。

 よくよく考えてみると、手伝うことはあっても、我が家の農作業を手伝ってもらった記憶がまるでない。

  このようなこともあり、私が本格的に勉強に取り組んだのが、上阪してからのことになる。心の中では、勉強をしたい、ムラムラとした思いが常に付きまとっていた。上阪してからは仕事に精を出す一方で、遊ぶことを惜しむように勉強に励んだ。それが私の青春の全になる。


 祭事
  島で育った時代が時代だから、どちらかと言えば、つらい思い出しか残っていない。当時の島民の皆さん全員が同じ思いであったはずだ。辛い農作業のことだけが強烈に残っている。

  当時の辛い生活の中で、唯一の喜びといえば、年に数回の映画や芝居を見ること。それに加えて年に一度行われるお祭りだった。

  地域は異なれど、いくら時代が変遷(へんせん)しようとも、地域の祭りは永遠に引き継がれるもの。祭は、先代から永遠と引き継がれている村の一大メーン・イベントなのだ。

  私の暮らす村の中央中腹に、「荒倉(あらくら)神社」が鎮座(ちんざ)する。我が家からだと比較的近い場所にある。桜の季節になると、神社入り口・鳥居と境内の中間にある桜を我が家の縁側から花見をすることができた。神社の中には立派なお神輿(みこし)が奉納されている。祭り以外の時は、神社の一角にほこりが被らないように、丁寧に保管されている。

  年に一度の秋祭りになると、神社から波止場まで、お祝いの縦断幕ののぼりが掲げられ、否が応でも、祭りの雰囲気が盛り上がった。当時は人口もそこそこあったが、それは賑やかだった。祭りになると、すでに都会暮らしをされていた島民の一部の方々も、この日のために帰省されていたことが記憶に残る。

  港は、海から見つめると湾に挟まれている。その両端にあたる小さな岬に神様が祭られている。左にあたるのが男の神様と伝えられていたので、女性がお参りのために伺うことは禁じられていた。

 湾の右側に祭られてあるのは、女性の神様、とされていた。ただし、なぜか男性が立ち入ることができた。ここで年に一度、神様の祭りが執り行われていた。それは賑やかであり、どこから来られたのは定かではないが、神様のある海岸に沿って屋台(店)がオープンされていた。ほんとに賑わっていた。


                                

唯一の娯楽(楽しみ)
  唯一の娯楽(楽しみ)は、年に幾度か興行される映画。上映間近になると、予告ポスターが掲示されていた。その時は、映画の上映がものすごく楽しみでもあった。と言うのか、当時の我が家の財政事情を知るすべもなかったが、恐らく裕福ではなかったはずだが、でも、おふくろは必ず映画を見せてくれた。
 
  もう一つの楽しみがお芝居。旅芸人一座が興行していた。そのときはまず、舞台の組み立てから始まる。使われる場所は二か所。船を引き上げるためにある、浜の傾斜地を利用することで舞台を組み立てていた。もう一か所は、村一番の広場を利用して、作られていた。

 方法は、丸太を使って組み立てられ、枠組みが完成すると、周辺を布で覆う。最後は、舞台正面一帯にいくつもの電球を取り付けると、舞台の完成だ。勿論、花道も備えてあった。芝居にとって花道は欠くことのできない見せ場になる。今思うと、大変だったと思う。

  興行は夜行われ、その時は、舞台全体に電球(照明)が灯されるので、いやがうえにも盛り上がった。

  舞台ができると観覧するための座敷確保をするのも楽しみのひとつだった。

  興行期間は2日程度だったかな? これが始まると映画以上に村全体がお芝居で盛り上がったものだ。


                                         

台風の威力
  台風18号(平成25年9月16〜17日)が和歌山県串本市海上、数百b沖を通り、愛知県豊橋市付近に上陸。その後、本土を縦断するように駆け抜けた。台風は列島に甚大な被害を与えた。このことから、つい忘れがちであった田舎での台風のことを思い出したので、触れてみることにした。

  四国は沖縄や九州と同様、台風銀座と言われていた。それだけに、夏になるとよく台風が島周辺を通過した。当時の台風は風が強かったので、家屋も風に耐えられる構造で造られていた。つまり、今都会で見るようなサッシの窓だけでは、とてもではないが風に耐えることはできない。

  島の写真でもお分かりのように、山から湾を見下ろすように、中腹から海岸に向かって家が建てられている。ただし、強風による被害から家屋を守る為、玄関は、極力、海側に向けることは避ける構造で建てられていた。

  都会でも一歩郊外に出れば今でも使われているはずだが、土壁を使った家屋があるはずだ。土壁を使うのは、室内の寒暖差を避けるため日本古来の知恵。田舎では今でも脈々と受け継がれている。我が故郷の家屋も土塀が使われていた。土壁の外側は妻板で覆い、更に妻板の腐食を防ぐためコールタールが塗られていた。

  風対策として、雨戸があった。さらに、窓のすべてに「かんぬき」といわれる、横棒が取り付けられる構造になっていた。これを使うとさすがの台風でも雨戸を吹き飛ばすことはなかった。それでも、風の強いときは、雨戸を固定するため、横板を当て、釘付けにしたほどだ。

  屋根瓦には、網で屋根全体を覆うか、瓦の水の流れるところを利用して、竹を網の目のように組み合わせることで、瓦が突風で飛ばされないよう施されていた。しかし、それでも強風に太刀打ちできず瓦が飛ばされることが再三あった。

  港は、定期船の接岸や漁船の停泊に欠くことのできないものだ。港の外海には、荒波から波止場を守るため、テトラポットが積み重ねられていた。しかし、それでも台風の波は強烈で、時には、波の力で防波堤が破壊され修理が繰り返されていた。


                                

今ある私の礎
  夏休みになると、ほんとによく泳いだ。故郷の海を中腹から見下ろしても、海底にある石が見えるほどに美しい海だった。コバルトブルーに輝く海の色。小さなさ竹に釣り糸を付けて餌を付けて海に投げ入れると、小さな魚が釣れた。海に潜ればいくらでも貝が取れた。魚も生け捕りしたもだ。まさに自然の宝庫だった。貧しい暮らしの中でも、子供たちに与えてくれた自然の恵が満載だった。

  夏になると、釜(かま)に入れて茹()でたトウモロコシをよく食べた。茹でたトウモロコシは、眩しいばかりの黄金色に輝いていた。当時の田舎でお菓子を買うほどの贅沢はできなかった。それだけに夏のトウモロコシは、絶好のおやつとも言えた。もぎたてのトウモロコシをお袋が茹でてくれた。茹で上がりでホクホクのトウモロコシをよく頬張った。トウモロコシは、お菓子よりも美味しかったのかもしれない。ほどよい甘味があるので、ほんとに美味しかったな。かぶりつき、いくつも食べた。

  でも麦飯は美味しくなかった。米のような甘味というのか、口の中で味わえるほどの美味しさが実感できなかった。芋も美味しかったけれど、あまりにも頻繁に食べさせられると、嫌気がさした。でも、これらすべてについて、実は私の健康の源になっていたことに気づかされている。今思うと麦飯、これほど贅沢で健康食品はない。都会で麦を目にするのは、星の数を数えるよりも難しい。

  野菜作りに欠くことの出来ないのが下肥。実はこれが最高によかったことに気づかされる。添加物とか、農薬とは無縁の生活であった。

  山に向かえば、贅沢なまでの自然が溢れていた。時には大木に登り、悪さもした。小刀で竹細工もした。だから、刃物を扱うのはお手の物。

  今の健康があるのは、故郷での暮らしがあったから。今、私に兼ね備えてある、我慢強さ、その多くのことが故郷で培ったものが礎となっている。だから、少々の貧しさにも耐えられる、少々の辛さにも耐えられる。田舎で勉強ができなかったので、努力をする精神も芽生えた。

  同じ生きるのであれば、苦労しないで楽に暮らせることを誰もが願うはずだ。でもそれでは別の意味での人間としての成長は望めない。むしろ、怠惰な生活は人間をダメにしてしまう。だからと言って、あえて苦労せよ、というつもりもないが。

  今ある私の精神・健康・思いやりの心の基礎となっているのが、故郷で培われたもの。このことを顧みると故郷で育ったことに感謝の念こそあれ悔やみの気持ちはない。

  ほんとうに何もない故郷だ。再び田舎で暮らす気持ちはないけれども、大自然が私の心、健康を培ってくれたことに感謝をしている。このことが当時の私には理解できていなかった。

  「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・<室生犀星(むろお さいせい)>

  思いつくまま、とにかく当時の思いを短期間の中で、断片的にではあるがつづってみた。いや、つづる、と言えば体裁の良い言葉に過ぎないので、殴り書きの方が、正しいかもしれない。いずれにしても、過去の暮らしについてかなりの材料が揃ったので、今後、更に追加と修正を繰り返しながら、少しでも満足の出来る内容にしたい。

 ま、こうして文章を書くことは、私のボケ防止の一助にもなっている。いずれにしても私は、書くことが大好きである。いつまで書き続けられるのか、自分でも分からない。

   2015年(平成27年)9月9日、追加、修正。


TOPへ