日々つれづれ、我が思いをつづる(2)

TOPpage                                     

2013年7月24日(水)
我がおふくろ

  おふくろの父(祖父)は、貧乏のため小学4年卒業の学歴で終わり、兵庫県内にある大同製鋼に就職をしている。祖父の遺書から正確なことが明らかになったので、追加修正のうえ書き留めることにした。

 祖父は田舎での暮らしでは成り立たないと考え、結婚と同時に23歳で上阪することを決断する。この時、病身な父の残した借金が当時の金額で、三百五十円。当時、七円あれば茶菓子を食べながら行ける時だった、とされている。そこで就職したのが冒頭で書き留めてあるように大同製鋼であった。祖父が就職のあと身をもって感じたのが、勉強の必要性だった、ことが書き留められている。そこで祖父は、猛烈なまでの勉強をすることになる。遺言書では、「一晩に一時間眠らず膝元を黒板にして一生懸命に勉強した」ことが記されている。と、同時に、安い給料から借金の支払いや学費、下宿代に追われる日々が記されている。 

  この後、工場事務所で商業工業中学生以上のものを集めて英語学校ができ、三回試験があり祖父は三回とも一番となり、社長から呼ばれている。そこで社長は、「君の履歴書を見ると小学四年となっているが君等の時は小学校から英語を習ったかと尋ねられたが当時夜間部には卒業証書をくれなかったので、そのことを話し、「関大」まで苦学した事を話すと、そうであろう、と言って一時に昇格をして、大同製鋼でも一、二位をあらそうようになった人からは、学歴を隠していたと、随分いわれた、と記されている。

  ところが、家族の生活が戦争で一変する。家族は、戦火を逃れるため父(祖父)の生地である高知県の島へ疎開することになる。 ところが、島には灯台が存在、その一方で宿毛湾が海軍基地であったことから、米軍機による厳しい攻撃にさらされたという。母の話では、家をかすめるように米軍機が飛来してきて、島を攻撃したという。米軍機による恐ろしいまでの攻撃の危機から逃れるため、家族は宿毛市内の奥地へと疎開したとも聞く。

  終戦に入ると、おふくろは、尼崎で身に着けた学問が武器となり、父(祖父)の故郷で教職に就くことになる。ところが、暫らくすると、我が父との結婚話が持ち上がるわけだが、このとき父はまだ漁師であったことから、おふくろとの身分の違いに引け目を感じた親父が、おふくろに「教員を辞めてほしい」と幾度となく頼んだという。

  このことからおふくろは結婚後、教職を辞して田舎での慣れない百姓に携わるわけだが、所詮都会で育ったおふくろには、体力もなければ、根性も欠けていたようで、のちに体を患い大阪の病院に入院をすることさえあった。

  このことも含めておふくろは、これ以上田舎で百姓をしていると、死んでしまう、と思う程になたらしくて、自身の弟が暮らす大阪を頼りに、私よりも一足早い昭和38年の暮れに大阪の地に移った。

  そのおふくろも今年の12月で85歳を迎えるわけだが、私が自転車で日本一周に出かけたころから、少し認知症の陰りがみられるようになってきた。

  おふくろは父の死後左足を3回も骨折をした。このことが結果としてその後の生活に大きなダメージを受けることになる。つまり、ここ近年、杖なしでは思うように歩けなくなってきたのだ。それが昨年末の冬に入ると、腰の痛みから歩くこともままならなくなり、最後は今年の1月末になると、自力でトイレに行くこができなくなった。

  こうなると男の私では、もうお手上げ状態。おふくろの下の世話まではできなくなった。そこですぐポータブルトイレを買い、ベッドのそばに添え置き、おふくろがトイレを訴えるとその都度脇腹から両手を差し入れ抱えるようにして、ベッドからそばのポータブルトイレへ移動させていた。

  しかしこれも一時的で、そのうち体を動かそうものなら腰を中心としてものすごい激痛に襲われるので、動かせなくなった。一時、食事も口元に運び食べさせていたこともある。このとき、食べていると喉に詰まらせて慌てたことさえあった。冬には私の手にアカギレの絶えることがなかった。この時初めて、主婦の辛さ、大変さを理解したものだ。

  男というものは、ほんとに役に立たないもので、さすがにおふくろの下の世話をする勇気がなかった。この時初めて、自分が女でさえあればと我が身を責めたこともある。

  今年に入ると、とくに認知症の度合いも増し、終日、あれがない、これがない、を繰り返すほどになる。時には私の精神がおかしくなる、とさえ思えることが幾度もあった。

  このような経緯をたどりながら、おふくろには申し訳ないが、今は入院をしてもらっている。ただ心の中で「おふくろ、ごめんな」としか言えない。

  しかし、世の中には、男性が寝たきりになった親の世話をしておられるのを知るにつけ、尊敬の念と同時に頭の下がる思いがする。母親と言えども、なかなか下の世話ともなるとできないものだ。ただし、これが妻であれは事は別であったと思える。

  妹が9月中旬からおふくろの介護をする、と言ってくれているものの、そう簡単でないことぐらい、生活を共にをしてきた私がいちんよく分かる。すごく心配である


 <2016年追加>
 2015年の慌ただしい年末、引っ越しをしたわけだが、母方の祖父の残した遺言書を私が保管していたが大切にしまったため、不明になっていた。それが、引っ越しと共に出てきたので、祖父の遺言書をもとにして一部追加修正をすることにした。

 最も知りたかったこと、祖父がどこの大学を卒業をしたのかについてであった。それが遺言書に書かれていた。

 2015年の年末の引っ越しで、祖父の遺言書がでてきたので、修正追加をすることにした。
                                2016年(平成28年)1月3日(日)修正
2013年7月21日(日)
今は亡き我が父
  私の父は、平成22年2月23日、77歳で亡くなった。病院に入院中での死である。

  亡くなる前年の秋、突然体調を崩して入院、手術をすることになった。腎臓に問題が生じたため人工透析をすることになったのだ。退院後は人工透析を余儀なくさせられる生活が待ち構えていた。以後、父の老後のことを思うと辛いものがあった。それは、父も同じであったと思う。

  父が死ぬ数日前、主治医の説明で、「もうすぐ退院できます。完全な状態で退院するようにしましょうか。・・・」。このような主治医からの説明であった。

  ところが、容体が一変する。父が死亡したその日の夜、仕事から帰宅すると病院から電話がかかってきた。看護師からの電話で、その声からかなりの緊迫さを感じた。「○○さんですか。お父さんの様態が急変したので、至急病院へ来ていただけますか」。これを聞いた私は病院へ急いだ。

  病院に着くと「至急来てくれますか」と言ったはずなのに、面会さえも許されない。一体、父の身に何が起きているのかわからないのだ。

  やっと面会できた場所は、救急治療室のような部屋。扉が開かれたそこにはベットがあり、その上で意識を失った父が俯けになったままだ。その父の上をまたがるようにひざまずき、それも若い医師が半べそをかきながら、必死で心肺蘇生を施している。つまり、このとき主治医が病院にいてるはずなのに顔さえ見せないので、若い医師もどうしていいのか困っていたのだ。

  ちょうど若い医師が半べそをかいているそのとき、廊下で主治医と出会う。このとき主治医から信じられないような言葉を聞くことになる。要するに、父の死後、主治医の身に責任問題の及ぶことを避けるためとも受け取られるような言葉がこぼれたのだ。

  私にしてみれば、父の死について、病院に対してものすごく不信を感じたものの、しかし冷静に物事を考えてみた。父の年齢を考えるといずれ死の時期が来ることは避けられない年齢でもある、と善意に解釈することで、あえて問題を大きく取り上げることは避けた。

  場合によっては、死亡原因をとことん追及する手段もあった。それを避けたのは、上記の理由からである。

  さて、随分長い前置きになったが、父には妹がいたわけだがまだ幼いころ、両親が離婚。その時の父の母の心情は分からないが、とにかく二人の子供を置き離婚をした。その後父(祖父)がすぐ病死。そのため兄弟は、叔母の家庭に引き取られてお世話になった。ま、そのこともあり、時代も時代だから、とにかく苦労をされたことを母から聞くのである。

  父は、お世話になった叔母に対する恩を忘れることなく、現金収入を得るようになると家族のことよりも優先して可能な限りの恩返しを叔母にされたようだ。

  父は結婚後すぐ機関長の免許を取得するため、島を離れて一生懸命勉強に励む。祈願である機関長免許を取得することになる。当時の島の多くの男たちは、カツオの一本釣りに憧れてカツオ船に乗るのが男意気の世界であったように思う。

  漁を終えたカツオ船が島に入港する秋になると、船体に沢山ののぼりが掲げられ、同時に島全体に聞こえるほどの景気の良い歌謡曲が流されていたことを思い出す。

  そうしたなかで父は機関長、という特別な免許の習得に励んだ心意気に尊敬をするものである。父は何事もついても自力で這い上がってきた。その意味においても尊敬できる父であった。

  その後、鰹船の機関長として働くが、後に貨物船の機関長として時には外国航路へ出向いたこともあった。その船が一度故郷の湾内に停泊したことを今も心に強く残る。

  幼い時から裸一貫で育った父も、のちに田舎に家を建てるまでになった。その家は今も田舎にあるが、もう人の住める状態ではない。生前、親父の従兄にその家をあげたのだが、その方もすでに死に、家の主は不在。私の手で家をつぶす必要がある。

  77歳で突然他界された父だが、生前、別れて暮らした実母からの面会のチャンスが幾度となくありながらも、父は意固地に拒み続け、生涯親子のよりを戻すことがなかった。

  苦労した親父だから極めて厳格。その心を知っていた私も子ども心に親父にだけは絶対、迷惑をかけることはできない、と父が死ぬまでその気持ちを貫いた。ただひとつの親不孝、それは結婚をしなかったことだ。入院をする直前まで随分、このことで父と議論を交わした。
2013年6月11日(火)
山桃
  私の住まいの近くに山桃の木があります。今、街路樹としてこの木を見かけることがあります。小鳥たちにとっても、見た目にも果実の木はいいですね。

  6月のこの季節に入ると、空梅雨に左右されることなく、例年と同じように果実が鈴なりになってくれました


1